takay36のblog

東京(23区)の銅像、東京都(26市)の銅像、それ以外の銅像で10000体を目指す。現在6380体。内容は銅像(全体像、胸像、複数像)、銅板レリーフ、動物、オブジェ、モニュメントで構成している。

浅田次郎「赤猫異聞」新潮社 
一、旧伝馬町牢屋敷同心 中尾新之助証言 嘉永二酉年生まれ二十七歳 現職市ヶ谷監獄署吏員
明治元年の火事をよく覚えていた。赤猫とは正しくは「解き放つ」こと。火事で焼き殺すのは不憫で鎮火ののちはいつどこに戻れと厳命して解き放つ。戻れば罪一等減じ、戻らぬときは探し出し磔獄門になっる。赤い獄衣を着た囚人が猫のように逃げ出すとは俗説だ。旧幕時代は浅葱木綿と決まっていた。私らは二十俵二人扶持、牢屋奉行石出帯刀様は三百俵十人扶持、御目見得以下だった。明暦三年の振袖火事から天保十五年まで十一度。慶応から明治に改元されたのはあの年の九月八日。幕府はないのに牢屋敷の百人の官吏資金はどこからでていたのかわからない。「伝馬町の牢屋敷」があった。二千六百坪あった。揚がり座敷牢、百姓町人牢、女牢、大牢。「牢役人」がいた。大牢を取り仕切る囚人だ。石出帯刀様が任命する。四百人の囚人をかかえていた。これをわずか六十人の牢屋同心がおりました。鍵役同心の丸山小兵衛がいた。鍵は町奉行所が握っていた。四十俵四人扶持だった。暮れの二十五日早朝使者が「信州高島無宿繁松死罪、本日執行すること」を告げた。私が仕置役を命ぜられた。刀を大上段にふりあげたとき、早鐘の連打であった。火の手が牢屋敷に迫る、死罪の執行どころでない。「南無妙法蓮華経」から「赤猫じゃ」の声があがった。石出様は「解き放ちをいたす」と言った。石田様は古老の同心に湯浅孫大夫がいた。彼をよんで相談した。浅草新寺寺の善慶寺まで移送し、因果を含め、鎮火後ここに戻れと命じたほうがよいと答えた。繁松と岩瀬七之丞を手鎖で繋いだ。中尾は二人を監視した。石出様が「これより解き放つ。鎮火ののち暮れ六つまでこの寺に戻るべし」と告げた。しかし隠売・莫連女お仙と重松、七之丞をどうするか。斬り捨てようとしたが、丸山は「しばらく」といった。「解き放し」は江戸の華、石田様は「解き放て」といった。
二、工部省御雇技官エイブラハム・コンノオト氏夫人スウィー二ィ・コンノオト証言
西暦一八三六年天保七年申年生四十歳、現住所東京第三大区三小区半蔵門外英国公使館内
若クハ横浜山下町グランドホテル館

司法卿から頼み事を持ちかけられた。市ヶ谷監獄の典獄様からのご訊問と伺った。夫人は白魚のお仙だった。役人は四百の囚人を解き放し、三人だけをなぜ斬ろうとしたのか。丸山の説得で解き放された。命の恩人だ。丸山は三人のうち一人でも戻らなければ戻った者も死罪。刻限まで三人が戻れば無罪放免とするといった。どうして三人だけ特別扱いをされたのか。夜鷹買いと博徒を御法度と官兵に知らせるために見せしめにしたのだ。太政官よりの厳命でとれられた特別の罪人であった。自由の身になっても三人は逃げ出そうとしなかった。わたしは島流し、二人は死罪。割りにあわないのだ。三人ともずらかったら丸山が腹を切るそうだ。三人は坂本村に逃げた。北町奉行さまの内与力の猪谷権蔵である。髪結い、飲み食いで金を払ったことがない。二人はへこたれた女を捨てて逃げる卑怯者ではなかった。越中富山の前田大蔵大輔様の家来に助けられた。お仙は「殺す」男がいた。高積改の与力から会ってもらいたい人がいるといわれた。猪谷だ。わたしは猪谷の女になった。明治元年官兵の軍紀をただすためいきなりお縄をうたれ、島流しになった。二人はそもそも死罪だった。遠島のわたしが死んでも問題ない。わたしは善慶寺に戻った。御一新ののち官員さまの御屋敷に雇われ、お客さまに主人がいた。鉱山技師
で月給百五十円であった。四十こえて子供を授かった。主人は北海道から帰ると年季が明けます。母校のオックスフォードで教鞭をとります。お仙は行きましたヨ。
三、高島交易商会社長 高島善右衛門証言 天保元寅年生四十六歳 現住所東京第二大区十小区三田松原町
高島善右衛門は典獄から呼び出しをうけた。後世の参考にするという話だ。御一新まえまで「高島繁松」と申した。もともとやくざの無宿人だ。十五から賭場の苦労を舐めてきた。三十過ぎて麹屋五兵衛の盃を受け六年世話になった。江戸に官軍がのりこんできて博徒たちは江戸所払い、島送りにされた。伝馬町の大牢に入れられた。丸山がきて死罪に決まったといった。繁松は喜三郎を十枚畳に据えた。土壇場で刀をふりあげたとき半鐘が鳴った。丸山の「待った」の声で助かった。善慶寺では三人が残された。役人どもが斬ろうとしたとき丸山が「しばらく」と待ったをかけた。この「解き放し」には但し書きが付いた。三人のうち一人でも帰らなかったら、帰った者も死罪、三人とも帰ってきたら無罪放免。誰も帰らなかったら丸山が腹を切る。善慶寺で解き放され、相手鎖をはずされた。三人とも同じ方向逃げ、坂本村に着いた。三人で戻れりや無罪放免だ。しかし、口約束は信じられない。わたしは帰るつもりでした。お仙はどこかにいってしまいました。七之丞は橋番所の四人を天誅だといって斬り、行方不明だ。繁松に会った。七之丞は下手人ではないといった。善慶寺に戻る。
四、陸軍士官学校教官 工兵少佐岩瀬正勇証言 弘化二巳年生三十一歳 現住所東京第三大区九小区市ヶ谷本村町陸軍士官学校内
尾張大納言殿の上屋敷であった市ヶ谷台は校舎と練兵場に変わった。第一期の士官生百五十ハ名の精鋭である。了解した。貴官らに明治元年暮れの赤猫騒動について話せばいいのだ。曽我閣下に校長室によばれ「本朝八時市ヶ谷監獄署の典獄が来校し、おぬしを訊問いたしたいそうだ。」といわれた。本官は岩瀬正勇(ただお)少佐。現職は教官。本官はかって岩瀬七之丞といった。父は岩瀬肥後守忠震(ただなり)といい、外国奉行の旗本でした。伝馬町の牢屋敷からまさかの放免をされこの先が心配でした。
善慶寺で三人が残っていました。解き放つにさいして条件を出した。三人が戻れば無罪放免、戻らない者がいる場合は戻りし者が死罪、三人が戻らないときは丸山が腹を切る。先日市中行軍をした。市ヶ谷から東へ向かった。外堀沿いを広小路へ、浅草善慶寺へ戻った。ここから今生が始まった。坂本村に行った。あのときぼんやりと火の手を眺めていた。炊き出しの握り飯が配られた。侍に刀を借りた。四人のうち誰かが死ななければなかった。太政官の御内達により、記録一切は公文書にあらず、異聞風説のたぐいとされた。あれは戊辰年十二月二十五日牢屋敷は静かになった。このときお題目が湧きおこった。繁松が博奕で死罪になるというのだ。そのあと坂本村から分かれ浅草に戻り、料理屋に入った。そこに上野の山でともに戦った中山伝八郎に会った。吾妻橋の袂の官軍番所に討ち込むといった。眼(がん)をつけたキンギレがいる。屯所の戸を開けた。そこには官兵の屍骸が四つ転がっていた。本官嘘は言わぬ。広小路で繁松に会った。二人は善慶寺に朝五ツにたどりついた。丸山にはなんの科もなくなった。間もなくお仙も戻った。話は以上であります。生きててよかった。ではこれにて少佐殿用事終わり教場に復帰いたします。
五、曹洞宗寂佳寺住職 湛月和尚証言 文政六羊年生 五十三歳 現住所神奈川県下第十三大区六小区
武蔵国多摩郡三田村同寺内
官員が山奥の多摩の寺まで住職を訪ねた。床に臥す身ながら頭と口は達者だった。私は湛月と名乗っております。寂しき一本の桂が月かげに湛えて美しい。明治五年の秋口にここにきました。後世司法のため明治元年の解き放ちについて調べているとききました。中尾新之助をよく存じておりす。伝馬町の牢同心から市ヶ谷監獄に職を得た人です。白魚のお仙は御雇技官の嫁になりました。人を見る目がありました。無宿人の繁松が天下の高島商会の社長とは驚きました。大牢の牢名主がやくざなままでは終わりますまいと思ってました。岩瀬の若様は軍人になられました。フランス國に留学され、西洋の兵学を修められました。「生きていてよかった」とくり返し申うされました。しからば私の在所を探りあてた経緯をお聞かせ願えますか。元牢屋奉行の石出帯刀様が私か湯浅に訊ねよと仰せになりました。湯浅孫太夫は祐筆で先月卒中で亡くなりました。私は俗名を杉浦正名と称しました。三河安城以来の御家人でしたが伝馬町牢屋同心に身を落としました。家禄は二十俵二人扶持でした。牢屋同心は六十人、牢屋敷内で生まれ育ちました。杉浦家は御鍵役と称する上席でしたので四十俵四人扶持でした。囚人の食事は一日二食、四合を与えてますが定めでは五合です。一日一合を撥ねるのです。明治元年戊辰の年の暮れ牢屋敷をどう切り回すか多忙でした。囚人も四百をこえると間引きが起こりました。牢名主が少しでも居心地をよくしようと気に入らぬ囚人を命ずるのです。下手人の罪を軽くしようとしました。しかし、重罪人は増えてゆきました。私と同じ御鍵役同心に丸山小兵衛がいました。石出奉行、湯浅孫太夫とわたしの四人で合議しました。天保の末から三十年牢屋同心をつとめましたが十人以上斬りました。繁松が大牢の牢名主になったのは明治元年九月八日です。前の牢名主が目に余る間引きをするのでかえたのです。年の瀬に繁松が死罪の御沙汰がおり、仰天しました。麹屋五兵衛が役人に金をつかませ死罪をもとめたものでした。

広島県の彫刻 広島市-7*   作成中

広島県の彫刻 広島市ー6*   作成中

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